
レーシックが必要としているもの
診療にあたっている医師が、たくさんの患者の人生に触れ、「エイズより人間の方が強いと思う」と嬉しそうに言うことがある。
A.Nさんたち感染者とともに過ごしていると、それと同じような気持ちを体験することがあった。
大阪の“A.Nさん係”たったM.Tさんは、A.Nさんが亡くなった後、「介護日誌」をまとめた。
そこにはA.Nさんの付添いは一般的な介護と異なり、「その場の状況に関わることに、自ら意味を見出すことが条件ではないか」と、ボランティアとしての自問自答が綴られている。
Hさん夫婦の短い闘病生活を思う時、たくさんの疑問い憤りが湧いてきてならない。
その後、Hさんと会ったり、訪ねだりして、詳しい事情を聞くとますますそう思うようになった。
そこには、エイズの告知をせず、発症予防治療に消極的な日本のエイズ診療の現実がみえてくる。
Hさんは、「どうしてもっと早くに告知をしてくれなかったのか。
いまだに許せない。
エイズとわかっていれば、早くから治療ができました。
ひどいと思います」と怒りを隠さない。
エイズがみつかった初期の頃は、カリュ肺炎で命を落とす人がたくさんいたが、やがてカリュ肺炎の予防や治療は可能になった。
夫も死の一週間前、告知が遅れたことについて「残酷だ。
どうして去年、ヘルペスが出た時にエイズだと言ってくれなかったのか。
先生を信用していたのに」と無念そうだった。
主治医を問い詰めたところ「告知すれば動揺する。
そろそろしなくては、と思っていた」と答えたという。
主治医は二人が結婚する時にも相談を受けているが、感染を告げていない。
Hさんは、彼がエイズに感染していたとしても結婚の意思は変わらなかった、彼は精神的にも強い人だったので、告知を受けたところで取り乱さなかっただろう、と涙を浮かべた。
Hさんの夫は独立心が強く、家業に打ちこみ、自分の世界をきっちり持っている人だった。
読書が好きで、ランを育てたり、竹トンボを作るなど、コツコツとつみあげていく趣味をもっていた。
日記をていねいにつけていた。
体の調子が悪くなっても、人の手を煩わして看病してもらうことをあまり好まないタイプで、妻にはそれが不満なくらいだった。
弱音を吐かない性格は、A.Nさんに似ている。
そんな人が今回は数力月前から「きつい」と言い始めた。
「昔の十分の一のエネルギーしか出ない」と訴えた。
肺炎になる前、病院に「風邪ではないようだから、入院させてくれ」と申し出たがダメだった。
あとで日記をみると、自分でもエイズではないかと予感していることがわかった。
エイズのことはよく勉強していたので、「おかしい、おかしい」と言っていた。
入院できたのは、高熱が二週間続いた後だった。
ようやく主治医から感染の告知を受けて、夫は落ち着いた。
腹がすわった感じだった。
「覚悟はできている。
ベストを尽くす」と言い、主治医にも「よろしく」と頼んだ。
主治医は本人に告知する二、三日前に妻と母親に告知した。
その時のことを、Hさんはこう言う。
「心の準備はできていて、ともかく最善を尽くそうと思いました。
母も同じでした」彼と両親は、それまで進学や独立をめぐってギクシャクしていたのだが、ここへ来て和解した。
息子は老いた親に優しくなった。
末期になって二日ほど体が焼けるように苦しくなった時、父が「我慢しろ」と怒ったことがあった。
いつもなら彼としてケンカになるのに、彼は「すまないね。
僕は人間ができていないから」と静かに答えた。
いつもと違うこのやりとりに、Hさんは胸を突かれたという。
彼は親友を病院に呼び、自分の病気を告げて、遺書を書いてもらった。
財産や家、車などをどう分配するか、指示した。
死の前夜には数人の友人たちを呼んで、二~三時間話をしている。
今まで担ってきた障害者運動の活動の引き継ぎをした。
った。
臨終に立ちあった看護婦は「武士の最期のように立派でしたね」と言った。
夫の死から二年たっても、「まだ死んだという感じがしません。
終わりだ、と思いたくないのかもしれません。
それにしても……」とHさんはため息をついた。
「『提訴してくれ』と言い遺しましたが、『訴訟のことを勉強したかった。
元気だったらいろいろ調べることができたのに。
障害者やボランティアの人の世話ばかりしていて、自分のことが“留守”になっていた。
先生を信用していたのがバカだった』と言っていました。
両親と私とであとを継ぎます」このようにして病名を知らず、延命治療を受けずにエイズが発症し、あっという間に亡くなる人は少なくない。
もちろんそうであれば、血友病患者の救済制度の対象にもならないし、薬害訴訟に訴えることもできない。
一九九二年の段階でも、ある県では、血友病患者の感染者のうち、告知を受けてトない人がまだ半分もいるという。
A.Nさんの死は突然だった。
一九九一年六月一三日の夜、ワープロで手紙を書いている最中に具合が悪くなって倒れ、意識が戻ることなく、六月一七日午後五時四六分、心臓停止。
死亡診断書には「脳内出血」と書かれた。
五四歳だった。
体は少しずつ弱まっていたし、それまでにも二回倒れている。
誰もが訪れるであろう死のことを覚悟はしていた。
だがガンはもっとゆつくりとやって来るものだと思っていた。
エイズは発病後、一直線に体調が悪くなるわけではなし。
病状、が悪化しても仕事を再開できるくらいに回復し、やがてまた症状が出て入院、というように“山”と“谷”をくりかえす。
少しずつHIV訴訟免疫力が低下していくのは確かで、CD4の値に一喜一憂してしまうのだ、これも検査のたびにかなり変動する。
なかにはCD4がゼロだと言いながら、見たところふつうに暮らしている人もいる。
A.Nさんは二ヵ月ごとに開かれる公判をベストコンディションで迎えられるよう、体調を整えていた。
だから公判で会う限りでは、たいへん元気だった。
体調を崩したり、倒れたりした時のことは、快方に向かってからの後日談で聞かされた。
人に心配をかけさせまいと努力する人だった。
一九九一年春、日本でメモリアルキルトの運動が始まった時、A.Nさんもエイズで亡くなった若い人たちを追悼するキルトを作製した。
その模様と、キルトの展示会場にやって来たA.Nさん夫妻を撮影したのが、A.Nさんを撮影した最後のロケにたった。
体調はよく、広島のボランティアの人たちと宴会をして盛りあがった。
この番組は五月二二日の「現代ジャーナル」で放送したが、感想を尋ねたところ、「エイズが血友病だけでなく、性行為による感染者と自然につがっていく感じがよかったですよ。
僕自身、まったく違和感がなかった」と電話の声にも張りがあった。
六月五日には、今治で「えひめHIV訴訟支援の会」の第二回総会が開かれた。
倒れる一週間前だったが、A.Nさんは、いつもの調子でニコニコと挨拶をした。
仲間うちの酒宴の席でも、陽気にしゃべりまくっていた。
そこがおひらきになった後、奥さんの迎えの車に乗るのを見送ったのが、私か見た元気なA.Nさんの最後だった。
最後に言葉をかわしたのは、六月七日の夜。
この日は東京地方裁判所で第八回口頭弁論があり、S医科大学のY.K教授が証言台に立った。
そのY.K教授の証言に感動して、私は思わずA.Nさんに電話をかけた。
「それはよかった。
大阪もがんばらなくちゃね」とA.Nさんも嬉しそうで、今後の裁判の見通しについて、ひとしきり話しあった。
A.Nさんが証言台に立つ日が楽しみだった。
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